※これ以前のリンクは、切れていることが多いと思われます。あらかじめ承知おきください。
交響詩篇エウレカセブン(ボンズ)
折り返し地点を過ぎて28話、名塚三瓶の迷コンビをよそに、周囲は大変なことになっています。ちびキャラで特別な地位を占めている久川綾演じるレイ・ビームズが、散りばなにいいところを見せてくれました。
川村万梨阿が10年前に演じた惣流・キョウコ・ツェッペリンとまったく違うキャラクター、違う演者の違う芸風によって作られた声ですが、なぜか共通のものを想起してしまいます。それが、狂女であり母親、というごく陳腐なイメージが聞き手の先入観にどうしようもなく存在するからなのかどうかは、よくわかりません。母親になれなかったレイ(え?)の方が、より業深く聞かれた、ようではあります。
日野原重明氏に文化勲章。
なぜこうも急速に、日本語が通じなくなってきたのか。
…何でも携帯電話やインターネットのせいにしたがるのは、大人の悪い癖だ。しかし、もし、この言葉を伝える便利な道具が、日本語を破壊している原因だとしたら、本末転倒としか言いようがないだろう。
日本語破壊の一因は…〜読売オンライン
原因は2つ考えられます。
ひとつ目は、自分は知らないけれど話の流れからしてどうやら常識に属することらしい、という言葉に接したときに、適当に話を合わせてごまかそう(知らないと思われたら恥ずかしい)、そして後でこっそり調べようとする人が少なくなったこと。泣いて馬謖を…なんて実感湧かない古っぽい言葉をなんで使わなきゃならないんだ?という方が、えー、こんなのも知らないの?という感覚を上回っているのです。
もうひとつは、学校が語彙を覚えさせることにあまり熱心でなくなったこと。学校が仕事をさぼっているというわけではなく、なにかと批判の多かった「詰め込み式」に費やす時間を減らして、そのぶん「生きる力」を教えることに時間を割こうとしているわけですから、これはこれで納得しなくては仕方がありません。ゆとり教育は実は知識軽視教育だったのではないか、という疑問や批判の声を目にする機会が多くなってきましたが、それはこの論点が念頭にあると考えていいでしょう。
したがって、常識のとらえ方とも学校教育とも関係のない携帯電話のメールの普及がこのことにいささかでも寄与しているというこの記者氏の見解は誤りであると言うべきです。
きもいうざいだるいの類はもともと話し言葉としてあるからこそメールにも登場するのでしょう。また、仮に「泣いて馬謖を切る」という意味の絵文字(!)が用意されていたとしても、その故事自体を知らなければ(少なくともその意味で)使う人はいるはずもありません。
ところで「本末転倒」とは「物事の重要な本質とそうでない末節を混同すること」です。転じて「ある目的のためによかれと思ってしたことが、かえって事態を悪化させてしまった」という意味にも使われますが、それはよかれと思う判断そのものが常識に照らして明らかに誤りである場合に限られると理解すべきです(例えば、サプリメントを過剰に飲んで消化不良を起こし体調を崩したり、リサイクルを訴えるアート作品制作のためにまだ使用可能な製品を破壊してまで材料となる廃材を「生産」するなど)。ものごとの利便性と厳密性は当然に両立するとは言えませんから、「便利なコミュニケーションの道具が普及した結果(言葉を使う機会が増えるために言語生活が豊かになってもよいはずなのに、実際は誤用や勝手な短縮形の普及ばかりが加速したせいで)言葉の正しい使い方が損なわれてしまった」というのは、そのことの当否はともかくとして転倒はしていません。なぜこんな誤りが起きるのか、「その一因」は、日本語の破壊(言葉に関する知識やその正しい使い方が失われ、または損なわれること)に対するとらえ方が曖昧なことにもあるように思われます。
- 恐竜人
- (伏し目がちに歩いてくるみきお少年に)少年!どうした?
- みきお
- なんでボクはすぐオチこむんだろ…
- 恐竜人
- オチこんでない時があるからじゃな
- みきお
- …そりゃそうですよ ずっとオチこんでたらやってられないですよ
- 恐竜人
- じゃ 立ち直ることもあるんだ よかったな
立ち去る恐竜人と、目を丸くして考え込むみきお少年
小泉吉宏「ドッポたち」読売新聞12日夕刊東京2版16面
「オチこんでない」と「立ち直る」の間隙を突いた単純なことば遊びですが、4コマの構成が巧みなために読者も一緒に考えさせられてしまいます。